自分のためだけに生きるのには限界がある

今日はものすっごく久しぶりに秋葉原に行ったんですよ.友人とね.ゼーガペインのDVDの続きを買いに出かけたんだけど,売ってませんでした.がっかり.
そして今の秋葉原は僕が小学生の頃に父親にねだってファミコンのカセットを買ってもらいに行っていた秋葉原とは全然違うんだよな…ということをまた再認識しました.なんかもうどこもかしこもオタクばっかり.360度オタク.自分もアニメのDVDを買いに出かけたわけですが,彼らとは見た感じは全然違う…つもり.いや,彼らも正確にはオタクかどうかはわからん.しかし「見た目がオタクカジュアル」とでも言おうか.エロゲが山積みにされている階からエレベーターに乗ってきた人たちは,もれることなくお互いに目を合わせないようにそそくさとしながら年齢不詳のとっちゃん坊や顔(背中のパンパンに膨れたリュックが僕のアゴに当たっているんですけど).うんざりしてエレベーターから出てきたら冥土さんがオタカジの人と何やら店頭で物色してる....冥土さんの同伴なんてサービスあるのねこれ...でもその彼は冥土さんと目を合わせてませんから.それでもそんなサービス(…だよね?)を頼んだ彼と寒そうな格好をしている冥土さんに神妙な心持になる.なんかよくわからないけど彼よりも明らかに年下であろう僕は「もう少し…頑張ってください…」とよくわからんエールを送りたくなった.


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秋葉原から帰ってきて,高校時代からの友人の家へ.かわいい奥さんとかわいい娘さん.「これが幸せです!」というパターンを切り取ったような家族.「それでもいろいろあるんだよ」と義父母や仕事への軽い不満,嫁の強権を茶化しながら言う彼.それが幸せだと言っているのだよ……と,なぜかここで唐突に脳内でリンクするアキバのオタクと昔からの友人.コントラストが強烈過ぎる場合も繋がる場合があるのか.
幸せのかたちなんて誰にもわからない.これは激しい世間的な「幸せ像」を連呼するプロパガンダともいうべき情報に晒されている僕の個人的な印象なのかもしれない.しかしどう考えてもどっから切り取っても,背負ってるものの圧倒的な大きさの違いを感じるほかないよ.確かにアキバのオタクも妻子持ちの人はたくさんいるでしょう.でもそんな人の中で大量にエロゲを買う人は圧倒的に少ないんじゃないのか? 別の友人は車のガソリン代も含めて月の小遣いは2万5000円だと言っていた.これでは大量のエロゲは買えんだろう.いや買わんだろう.
楽しいゲームが出る.電化製品,アイテムが出る.フィギュアもある.別に漫画だって楽器だって車だってクルーザーだって何だっていい.でもその物欲には,自分の稼ぎを全て自分に投下する行為には限界があるんじゃないのか? 海外旅行にひとりで行ったっていいよ別に.しかし僕だったら猛烈に虚しいわ.事実,虚しさを味わいたくて学生時代はひとりで旅行に行ってた(ま,ほとんどが国内だったけどね).俺はどうやっても物では自分を完璧に満たすことはできないし,誰かを得てしまったことで,たまのひとりの時間,気楽さを感じられることと同時に激しい寂しさも知ってしまった.
ひとりでできる自己実現なんてないよ.ひとりで満足できる,そんな人間だったら身勝手でよくわからん人間がうじゃうじゃいる動物園みたいな学校で働こうなんて思うわけがない.他者を自己の中に投影してこそ僕は僕自身のアイデンティティを構築することができる.自分がない,といえばそうなのかもしれない.でもそれを認識してさえいればいいのかな.いいと思うしかない.これはたぶん変わらないから.変えようとも思わないし.
自分のための人生なんてない.いや,ある.自分がこの人のために生きたい,そう感じたいと思ったらそれが自分のための人生だな.こんな人間はキモいよ.でもそんな自分自身を嫌いじゃないからタチが悪い.