集団の生き物と個の生き物

本当にゴメンナサイ.『涼宮ハルヒの憂鬱』が面白いんですが(またか).意外なほど閉鎖された空間とSFってマッチするんですね.そういえば自分は『サマータイムマシン・ブルース』を観たときも強烈に感動した記憶があるから,その手のものが僕は好きなんだなぁ.知ってたけど.
で,ここで言いたいことはそんなことではなく(主人公の涼宮ハルヒのような)「かわいい変人なんているわけねーだろ」ということです(けっきょく今回もid:torlyさんを意識したようなエントリになってしまって,そんなのに興味ないよという人には全く申し訳ないww).いないと言えば言いすぎかな.でも限りなく少ないという意味では間違ってないでしょう.なんでかなーと考えてみると,女性は男性よりはるかに集団の生き物だと思うからです.
逆のパターンを想像すると何となくわかるかもしれない.男の子だったらイケメンの変人っていると思うんですよ.「○○くんは顔がいいのに惜しいよね」と会話している女子連中に遭遇したことは1度や2度ではありません.なぜなら男性は女性よりも自己完結している生き物だからです.職業や社会的な面でも女性よりは1人で生活できる環境が整っている.だから興味の部分が外へ拡散するよりも内にこもる場合が多い.世界的に見てもコレクターの実数とか,別に総計したことはないだろうけど男性のほうが圧倒的に多いと思うよ.
女性は集団の生き物でしょう.トイレに一緒に行ったりとか,興味があるのはジュエリーとか服とか他者を対象物としてその存在価値を増すものが多い.「腐女子なんてヲタもいるじゃないの」と反論されても,腐女子の方が男子ヲタよりも群れるでしょ(想像ですが)と更に反論したいです.
個と集団の傾向についてここで少し考えてみましょう.個は判断基準がその殆どを自己に頼っているので,より一般性を手に入れることが少ない.だから服装とか髪型を気にしない男性って多いのですよ.周りに親しい人間がいないと誰も指摘しないし,親しい同性がいたとしても「別に他人の好みだからとやかく言う必要がないよね」と指摘せず自己判断を優先させる.お節介な人がいても「俺は俺だから」って根底の部分で譲らない場合が多い.それは著しく男性によく見られる傾向です.集団の生き物は,集団が既にアイデンティティとして確立しているから,その母集団に所属していれば慣例事項として共通認識されているパターンをはみ出すことは全くと言っていいほどできない.はみ出した瞬間にその集団からの離脱を意味するからですよ.集団に個の活動方針を当てはめている人は,次の集団を見つけない限り不安定な生活を送ることを強制されるのです.学校生活をおくる女子なんて,まさしくそのバランス感覚が全てなんじゃないですかね.
自分が男性に生まれてよかったなと思うのは社会的な強制力が,女性のそれよりも弱いってところに尽きるでしょう.女性のほうが集団的生き物だから「こうしなきゃいけない」が男性よりも多すぎる.そういう社会的生き物であり,今までの社会は集団化され個性を埋没させた女性像を望んでいたのですよ.その傾向が近年崩れてきているといっても,それは単なる女性の社会進出とキャリア志向いう新しい集団軸の形成であって集団から個への移行とはならないのです.どうしてそうなっているのかはわからないです.生物学的な話なのかもしれないし,社会形態がそうしているのかもしれない.でも原因はどうあれ事実はそこにあって,集団的な生活安定を強く望む男性が被る悪影響よりも,個の生き物として生活したい女性がパージされる頻度は限りなく高い世の中であるということは断言できます.
話を最初に戻しましょう.女性に対する「かわいい」という判断基準は,決してその個人が持つ内在的な表装部分(=顔・スタイル)だけではなく,服装への気配りとかお化粧の上手さであったりとか,流行を敏感に感じ取るセンスだと思うのです.だから女性よりもより個で生きる男性は,男性女性の誰もが見て「かっこいい」という絶対軸は少なく,その分内在的な表装部分よりも獲得したステータス(学歴・仕事ができる・話が楽しい等)に左右されることが多いのでしょう.涼宮ハルヒ(またか)にそれらを当てはめようとするとどうしても矛盾を感じるのです.制服でいても私服でいても彼女には一定のセンスの良さを感じるし,それは集団に所属していないと獲得する機会は限りなく少なくなる.テレビを観ても雑誌を読んでもセンスは磨かれるけど,そのセンスを磨くという行為が既に他者を意識したものであり,「私は他人の目は何も気にしない.個で生きよう」というスタンスからは大きく外れるような気がするのです.或いは,誰にも自分について有無を言わせないようなスタイルを貫くのなら,コミュニケーションに特化しない代わりに表装部分の一般性を彼女は手に入れる必要があったのでしょう.そうすれば涼宮ハルヒは自ら集団の生き物であることを認めているということであり,同時に彼女からは「かわいい変人」というラベルは消え,彼女は「かわいい一般人」とカテゴライズされるべきなのです.