ネオリベラリズムとフリーター

少し前にネットサーフィンしていたらこんなサイトにあたった.

http://www.kajisoku.org/archives/50742421.html

うわっ,プーチンすげーなぁ,こええなぁ…ってこれをパッと見て思ったのだが,その後に続くコメントを読んでいったら違った意味で怖くなった.その感覚は先日NHKスペシャル新シルクロード第4集 荒野に響く声 祖国へを見終わったときの感じと似ていた.しばらく前の小泉人気ともオーバーラップするが,人民がイニチアシブの強い保守的な権力者を支持するのは国内情勢がどのような時で,またその支持層はどのような分布になっているかが少し見えた気がする.
人々が国政により強いリーダーシップを求めるのは停滞している経済や先行きの見えない国際情勢,国内社会問題等が山積している時だろう.国内が疲弊していて政治にも失望している.そんなときにパッと出てきた人物が自信をなくしかけている人々に,方法はどうであれ「私たちは優秀である.自信を持て.大丈夫だ」というようなことを主に強行的な外交政策・国内政策によって強烈にメッセージとして発信する.ナポレオン然り,ヒトラー然り.プーチン小泉純一郎を彼らと同一の存在として並べる気はさらさらないが,その登場の仕方は似通っている部分が多い.
では,政治的なリーダーシップを求めている人はどのような人々なのだろうか.私は権力層により近い上層階級とそれとは経済的な面で対極に位置する下層階級が支持していると考える.一見矛盾するような結果となるのには理由があり,そこには全体主義ネオリベラリズムの共通性があるからだ.
他者を叩くという欲求はどこから生まれるのだろう? 生活の充実と心の充実があれば人間は攻撃の矛先を対外方向には向けない.昔から「金持ち喧嘩せず」とはよく言ったものだ.それは国家であっても同じである.国内に問題を孕んでいる場合に為政者がとる安易な行動は国外に敵を作ることだ.ネット界隈で特定アジアと揶揄される国々を見ても傾向はつかめるかもしれない.
話を戻す.全体主義には中間層は存在しない.ごくごく少数の特権階級と残りは下流底辺層である.特権階級は権力に擦り寄ることで私腹を肥やし同時に政治的発言権を強める.下流層は情報操作と国家権力による圧力で従順な愛国者に育て上げられる.ネオリベラリズムも一部の成功者が更に多くの富を求め,政治には関わりを持たないスタンスを見せつつもリバタリアンとして政権を暗に支持する.そして本来なら張り巡らされているはずのセーフティーネットの恩恵を受けることのない多くの人民が「私はかつて貧しい暮らしをしていた.だけど努力をして現在の栄光を掴んだ.夢をあきらめないでほしい!」というハリウッドスター(もしくはプロスポーツ選手)の言葉を真に受け,それがプロパガンダとも知らずに一生を貧困層として暮らす.貧困層には高等教育は施されないので自己責任論に埋没しながら,社会の構造的欠陥を考えることもできずネオリベラリズムの矛盾点に気付く者は少ない.そして高等教育の恩恵を受けたものはラインに乗ってしまえば貧困層に転落することはほとんどないので現行の社会システムを支持する側にまわる.全体主義ネオリベラリズムも豪邸に住む者は「本人の努力の結果」として,非難されないばかりか賞賛されクラスタの固定化は半永久的に維持されるのである.
日本はどうだろうか? 小泉改革によって,ネオリベラリズムが推進され「格差が出ても仕方がない」と言われるまでの社会になりつつある.わが国はアメリカ型の行き過ぎた全体主義さながらの経済至上主義までは至っていない.しかし「我々の主張を認めてくれなければ生産拠点を海外に移しますよ」という経団連の強烈な圧力を受けた現行政権が,派遣労働を多分野で認め,規制緩和を押し進めることで牌の奪い合いを促進し,ホワイトカラーエグゼンプションまでも成立させようとしたという事実は,果たして「結果の平等ではなく機会の平等を」「強者を助けることが弱者を助けることにつながる」という新古典派経済学の青写真に本当に行き着くのであろうか.答えは考えるまでもなく「ノー」だろう.
つくづく思うのはお上の掲げる再チャレンジ政策のアホらしさよ.日本の労働市場にはこれまで敗者復活の土壌が全くと言ってもいいほどなかった.再チャレンジをしやすい社会にするからネオリベラリズムを導入しますよ!と言うは簡単だが,そんなに上手くはいかない.なぜなら労働市場のような世間慣習の変換は政権が進める政策よりもずっと遅いペースで進むからだ.政府が「痛みに耐えて」などと言っている間に弱者が肩を寄せ合っている地方は倒れ,草刈場となったところで新古典派経済の申し子である多国籍企業が乗り込み,数と金の理論で弱者は強者に淘汰されていく.そこには再チャレンジも,機会の平等もなく,自己責任と自己努力という実しやかな言葉の前には,社会構造の欠陥を隠すカラクリに気付く者はいないだろう.そのカラクリに気付いたものは,不完全な社会構造を打破する側にまわることはなく,子息に情操教育を叩き込み弱者側に転落させない人生を歩ませるのである.
(そもそも政府が用意した役人の再チャレンジ枠は,驚くほど狭いものでしかなく,そこに殺到している人々のその殆どが他業種でキャリアとして育った優秀な人間であったことは皮肉以外の何物でもない)

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教員という職についていると他の人たちが感じ得ないであろう感情が芽生えてくる.自分は結婚もしていないし,子供もいないので比較はできないが,どんなに勉強のできない生徒でも,皆が赤の他人として見るような電車内で見るようなウザいガキとは思えなくなるのだ.
私の働いている学校はそれほど偏差値が高い学校ではない.それを象徴するような出来事が先日あった.OBが何人か学校に遊びにきたのだが,その全員がフリーターであったのだ.元担任の先生が「お前らも将来のことを今から考えてしっかり就職活動をするんだぞ!」と強く訴えていたものの「就職すると自由がなくなっちゃうじゃないですか」「今しかできないことをやりたいんですよ」なんて悲しくなるようなことをのたまっていた.私はここに戦後の極端な平等社会から,格差社会への移行段階はある程度の帰結を示したような気がした.
もう日本社会は戦後からの誰もが貧しく,そして誰もが上昇志向を持っていた世の中には戻れないだろう.それを顕在化しているものが,将来的な考えも浅く,なんとかなるだろうと考え,楽観主義をきめこんでいるフリーターであり,ニートであり,ひきこもりという存在だと確信している.しかし,どうやっても全世界の人々が経済的にも精神的にも豊かになる社会なんてないのだ.どんなに綺麗ごとを言ったところで所詮は絵に描いた餅である.我々は既に100円で買えるチョコレートのシステムを手に入れてしまった.その一方でギニア湾岸のカカオプランテーションで働く少年は一生チョコレートを食べることも無いと言うのに.それでも,いくらカッコいいことを考えて言ったとしても毎日何も考えていないようなクソガキと接していると,こいつらをなんとかして底辺層に転落させないようにしたい!と思ってしまう自分がいるのだ.この社会的な構造を打破することもできない無力な自分が.ましてや底辺層で燻っている自分がね.全くもって喜劇以外の何物でもない.

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今日もネット界隈では自己の中で溜め込んでいる苛立ちを発散するべく,自分よりも弱い者(それはただ単に存在を明らかにしているだけの人なのだが….決して叩かれている側だけあって叩く側の弱者ではない)を晒したり祭ったりしているのだろうか.特定アジアを罵ったところで,動物虐待を告白する痛い人物・犯罪歴を赤裸々に語る愚かな者を叩いたところで,自己の引きこもる正当性をアピールすることはできないし,自分の辛い現状を打破することはできないのだよと私は言いたい.同じ頃,上層クラスタの人間は目の玉が飛び出るような高額なホテルに滞在し,友人やキレイな彼女とディナーでも楽しんでいる世界が広がっているのに.他者を叩くよりも,スラムとゲイティッドタウンが混在する社会を憂い,安定と協調が美徳とされた日本社会には適合しないネオリベラリズムに矛盾を募らせるなら,たとえ時代遅れと言われてもケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』でも斜め読みする方がよほど今の日本では建設的だと私は場末のブログで主張するよ.