笑わないけど虎にもなれない非コミュ

「・・・ごめんなさい,こういうときどんな顔をすればいいかわからないの」
「笑えばいいと思うよ・・・」






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なんて遣り取りを前のエントリを書いているときに思い出しました.でもこの会話とその後の綾波レイの笑顔には疑問符をつけざるを得ないです.だって普段から笑顔を見せない人は,いざ笑顔を作ろうと思ってもできないもの.そんなわけで今回も非コミュの話です.

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非コミュの人は笑いません.いや,笑うのかもしれないけどその笑顔がなかなかわかりづらい.一方のサンプルとして,僕はいつもリアクションがでかいです.大学生のときはバカにする意味も込めて(つーかそれが殆どなんだけど)仲間内ではリア王と呼ばれていました.でも友人たちで,街中を歩いているといつも僕が話しかけられるんですよ.おじさんおばさんおじーさんおばーさんこどもわかいおねーさん.なんでかなぁと一時期本気で考えました.そのときはわからなかったけど,いまなら確実にわかります.
しばらく前の非コミュのエントリのひとつ話のオチとして「人を嫌いにならない人は自分も嫌われることが少ない」というのがありました.生徒から言われた一言でしたが,これにもうひとつ加えてもいいでしょう.それは「笑顔でいる人は他者からコミュニケーションを求められやすい」ということです.
人は誰しも不安なんです.この人は自分に対して悪意を持ってないだろうか,自分のことを嫌いなんじゃないだろうかなんて,心配性でない人でも本人は知らず知らずのうちに考えています.だからこそ安心したい.「俺はお前のことを嫌いじゃないよ」って言ってもらいたいんですね.でもそんなことわざわざ言う人は僕ぐらいですから(ウザ),どうにかして言葉ではなく軽くポジティブな感情を伝えようとする.それが笑顔だと思います.
893のおじさんが自分に笑顔で何か話しかけてきました.まず殆どの人が怖い顔をして答えるのではなくて,ひきつっていようが笑顔で返事をするでしょう.「私はあなたには悪意を持っていませんよ」という意思表示です.それで893のおじさんがジョークでも「なんちゃって」と言おうものならこちらは大爆笑ですよ.つまりそれは安堵の気持ちが笑いとなって上乗せされるからなんでしょうね.怖い人のギャグをつい笑ってしまうのは.
話を戻します.非コミュの人は能面のような顔をしています.そういう顔をしている人が多いです.でもそれはATフィールドなんですよね(意味不明).谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」じゃないですけど,人々はみんな孤独で不安です.それをどうにか埋めようとして他者を求めようとする.でも,求めても答えてくれなかったらどうするんでしょうか.
その後の行動は2通りしかないですね.どうにかして相手に答えてもらおうとする努力をするか,自分から積極的なコミュニケーションを取ることをやめてしまうかのどちらかです.後者を選ぶなら笑顔もやめてしまいます.笑うと誰かから話しかけられてしまいますからね.新しい人と関係を構築するのが苦手な人は,話しかけられることを恐れます.自分はうまく話せないから相手に嫌な気分をさせてしまうかもしれない.相手を期待をさせておいてガッカリさせるのがつらいし,自分もガッカリしたくない.だから最初から話しかけないようにしよう.そうは考えていないかもしれないけど実際はそれに近いのではないでしょうか.わからないですけど.
でもその行為は自分を更に追い詰めていくのは目に見えています.ずっと前のエントリでもそのことについて触れているけれど,非コミュの人はひとりで生きていけるスキルが,リア充と呼ばれる人よりも培われそうで培われない.だから「もう他人の反応については受け流せる」と豪語するようなある種達観している非コミュの人も,実際は自身の今後を憂いながら,聴力だけは敏感になっていくのではないでしょうか.外部からの交流を遮断するように学校の机で突っ伏している生徒なんかね特に.まあ昔の(一時期の)僕ですけど.
高校生のとき,現代文の教科書に載っていた『山月記』を読んで,「ああ僕もいつか虎になっちゃうのかな」って思いました.そうしたらちょうど絶妙のタイミングで,現代文の先生が「人は誰しも虎になる可能性はあるんだよ」「でも君たちは絶対に虎にはならないよ」「だって人間が虎になるわけないだろう?」って笑いながら話してくれました.なんかその言葉に救われましたよ.別に人生に絶望しているとかそんな偉そうなことを考えていたわけでもないですが(きっと思春期特有の「俺だけ人と違う…」という熱病でしょう.ああ恥ずかしい).それでも先生の言葉を今考えれば,「人は思い違いの孤高を貫くと虎になる」という小説のメッセージを,思春期の恥ずかしい「俺だけが」という勘違いの優越感と劣等感を逆手にとって「人は誰しも」と一般化し,それでも「人間は虎になるわけない」って常識で片付けて安心(がっかり?)させる技量には,同じ教員という立場に立っても感服以外の何物でもないですよ.だから今は「俺らって所詮みんな違ってみんな同じなんだから」と恥ずかしい勘違い中高生にはいつも言ってやります.
ま,現代文の先生はそんなことを考えて言ったかどうかはわかりませんが(良いように捉えましょうねw),話を元に戻しましょう.つまり,誰しも笑わない可能性と選択肢がある(あった)のに,笑わないことを選んでしまった人は過剰な自信による反動か,もしくは自信の欠如という相反する理由があると考えます.「尊大な羞恥心」と「臆病な自尊心」ですね.僕も以前は根拠のない自信に満ち溢れていたくちなのに,今や自信が全くない人間だからよくわかるんです.だって自分の笑顔ってキモいんですよ.ひとつの例として,僕はかつては写真の中で笑いまくってたのに,誰かにからかわれたか冗談を言われたかで「俺の笑顔ってキモいなぁ」って思うようになってしまった.それはたぶん写真が嫌いな人全てに共通する経験でしょう.なんかもう「写真撮るぞー」って言われると意識しちゃって笑えないんですよ.でもそれはまたさっきの何かに似てます.
笑顔を作りなれてないと人は笑えないです.だから能面の人はずっと能面.笑おうとするとキモい顔だから.でもそう考えているのは自分だけなんですね.笑わないうちにいつしか平然とした顔になってしまう.喜んだって手なんて叩かない.そして感情は自分だけに留まらないでいつしか笑っている人のことをも蔑むようになる.だって他人を否定することで自分を正当化したいもんね.笑わない自分を.
笑えばいいと思うよ.そんなことを考えているだけでも下らない.だけど下らなければ笑えるでしょ.最初は笑えないと思うけれど,そんなのみんないっしょじゃんね.笑ったって笑わなくなって人間は虎にはならないよ.でも達観してやせ我慢をしている人だって,どうせ孤独で誰かを求めているんでしょう? だったら笑えばいいじゃない.こんなの訓練だよ.その後の会話だってそうなんだよ絶対.僕は虎にはならなかったし,誰も虎になるわけないんだから.