国民審査

今回も全員に×を付けたよ。国民審査は日本国憲法の欠陥だと思う。それはモンテスキュー以来の三権分立論から行政権の優越を避けるためのものなんだけど(現実問題として行政権が優越してしまっているが)殆どの国民は何の疑問も持たずに信任する。適任かどうか判断の仕様がないから。だいいち法律の専門家でもない一般庶民に「この人は最高裁の裁判官として適任かどうか判断してください」なんて聞くほうがどうかしている。英語がサッパリわからない人に「この中から英語がうまくない人をチェックしてください」なんて言うのと同じだ(…違うか)。
プロ市民ぶっている人は(僕もその1人なんだろうけど)、新聞なんて小まめにチェックしちゃって「この裁判官はこの裁判を担当してこういう判決を下したのか…なるほど」と情報を入れてから国民審査に望む。そして×を付ける欄があるから×を付けずにはいられない。自分でメディアから得た知識を披露したいから、特定の1人か2人の裁判官だけに×を付ける。でもそんなことをしても、冷静に考えてみれば、何十年も法曹界に身を置いてきた人が下した判断にいちゃもんを付ける素人という姿にしかうつらないんだよ。
法律に詳しくない国民が行う国民審査は政治に詳しくない国民が選挙で投票するものとは決定的に違う。選挙は自分が支持する政党や候補者に賛同するものであって、国民投票は支持しない裁判官の罷免を求めるものだから。もちろん法律の素人である我々が国民審査を通じて「どうにか日本を良い方向に!」と考えることは間違ったことじゃないし、そういうことはどんどん考えるべきだと思う。でも戦前・大戦直後の司法混乱期と今とでは比べ物にならない程、司法の世界は自浄作用が見られるようになった筈だよ。他の国々に比べてもね(確かに高度経済成長期の四大公害病判決における行政よりの判決は国の姿勢を伺ったものと捉えられても致し方のない部分はあるけれど)。
だから国民審査は欠陥なんだ。形式だけのフィルターを用意しておいて(ただしそのフィルターに引っかかる裁判官はいない)「ほら日本はきちんと三権の独立とチェック機能を果たしていますよ!」と言っている出来レースにしか過ぎないから。その現状を変えていくには制度自体を改めなければならない。でもそういうことを考えている人が少なすぎる。だから目に付くかたちで現職の最高裁裁判官が不信任にでもなれば、制度の見直しにつながっていくのではないかなと僕は考えているんだ。もしそういうことから不信任になってしまった裁判官が出てきたら彼らには申し訳ないけれど、機能していない欠陥の制度を変えるためにはそれぐらいしか方法がないんだよ。
裁判官の全員に×を付けたからって、ふざけてそれをしているからというわけではなく、きちんとした信念に基づいての行動ということ。結果はふざけている人と同じ全員×かもしれないけど考えていることは全然違うんだ。
プロ市民っぽい文章終わり。